- 2019.03.29
- コラム
医療現場のつぶやき : モードの迷宮
モードの迷宮
「モードの迷宮」という本を昔読んで、なんのことが書いてあるのかよくわからなかったということだけは覚えている。
あれは哲学者の鷲田清一先生の本で、私が学位を取ったときの総長がその鷲田先生だった。私はいわゆるメインの年度末ではなくマイナーな9月に学位を取ったので、学位授与式後の懇親会場も小さく、そのおかげで鷲田総長と話して写真まで一緒に撮ってもらったのだった。そのとき、ああこの人がモードの迷宮を...と思ったのだけど、内容が理解できなかったし、記憶にもほとんど残ってないのでその話題を出すことはできなかった。
モードの迷宮におけるモードというのはいわゆるファッションにおけるモードである。この吉本隆明の書評を読んで、ああ、そういうことが書いてあったのかと今更ながら納得している。
https://allreviews.jp/review/824
改めて考えると日本語として普及しているモードやファッションという言葉は原義からすれば偏った言葉になっているなあと感じる。しかし言葉は生き物なので、意味の厳密性にこだわってもしょうがないなとも思う。
modeという言葉の語源は辞書によると「測定の尺度」という意味らしい。心理学者からすると尺度という言葉にはそもそも測定するという概念が入っているので、表現に引っかかるところではあるが。
自分的にはモードは「評価の基準や機能の種類」という理解をしている。私は大学院受験の時に、英単語を覚えるのに苦労して、ある方法に辿り着いた。ある1つの単語について、辞書をひいた時にいくつか出てくる言葉に共通する意味を考える、という方法である。要するに自分なりに語源を推測するという方法なのだけど、これが一番自分にあっていた。中学の時の英語の先生が、覚えたことは忘れるけれど理解したことは忘れないと話していたことを覚えている。そして私はその考えが正しいと思っている。私は、英単語を覚えるのではなく、理解しようとするモードに切り替えた。語源を調べ、考え、さらに単語を語幹と接頭語、接尾語に分解して理解する。漢字を覚える手順と英単語を覚える手順は同じなのだとその時に気づいた。パーツ毎の意味と、その組み合わせで生まれる意味やイメージを理解するのだ。
モードを切り替えた時、今までどれだけ頑張っても突破できなかった壁を突破できることがある。しかし、どうモードを変えれば良いか、それはあらかじめわかるものではない。だからこそ、試行錯誤が必要なのだろうと思う。試行錯誤のうまさとは、モードの切り替えのうまさである。
何かがうまくいかない人が目の前にいる。それが自分にとって難しいことでもなんでもない人は、その人を見て「なんでできないの?」と思う。そして多くの人は善意から「わからないことがあればなんでも聞いてね」などと声をかける。
皆さんは一輪車に乗れるだろうか?乗れないのであれば、なぜ乗れないのか是非とも理由を説明して欲しい。おそらくできないだろう。乗れないものは乗れない、あるいは練習したことないから乗れない、と答えるのではないだろうか。後者については練習したらなぜ乗れるのか説明して欲しい。おそらくできないだろう。
実はこれ、一輪車に乗れる人であってもなぜ乗れるのかは説明できないのである。このような「手続き」に関する記憶は説明することができない、というのは心理学では古くから知られた現象である。
我々にとって何かが身につく、理解できる、というのは実は知識を得るというより特定の手続きができるようになる、ということなのだろうと思う。
手続きを身につけるためには、どのモードが自分にとって効果的なのか試行錯誤する必要がある。ということは、アドバイスする側の人ができることは、試行錯誤できる環境を提供することと、試行錯誤するためのまだ本人が試していないモードに関する提案くらいのものではないかと思う。
滋慶医療科学大学院大学 医療管理学研究科 准教授
岡 耕平